くるくると、内側だけで完結する世界。
何物にも左右されず、何者にも侵される事のない、箱庭のような世界。
羊水の中をたゆたうような。微温湯で溺れるような。
そんな、柔らかな致死毒でゆっくりと自殺するような感覚に似ている。
そうして
私は緩慢な眠りの中で、偽りの夢を見る。
side : L 〜 蒼い狗の憂鬱 〜
わざと淡く落とした照明と、大きめに切り取った窓から降り注ぐ陽光が店内を優しく照らす。
ある者は各々の談笑に華を咲かせ、またある者は他よりもゆっくり時を刻む店内で深く思考に耽る。
彼らを包む空気は穏やかで、芳醇な紅茶の香りが甘く彼らの間を漂う。
陰陽が濃く浮かび上がる店内は、そこだけ時間の流れが遅くなっている様だ。
「…ふん」
その様子に満足げに頷くと、それまでかけていた、店の内を邪魔にならない程度に流れていた音楽を別のものに変えてみる。
するとそれだけでまた、店の雰囲気が華やぐから面白い。
こういった場を作り上げ装飾を施していくことは案外自分の気性に合っていたらしく、暇を見つけてはこそこそと店内のレイアウトに力を入れていた。
テーブルの配置、調度品、照明の明るさ、テーブルクロスの配色。自分が入ってから日々自分好みに進化する店内は
さながら一つの城のようだ。
ここは都内(都内?)某所、紅茶が美味しいと評判の、とりあえず世間の流行り廃れには影響されない程度に繁盛している
紅茶専門店。
俺は臨時のアルバイト扱いではあるが、雇い主である癖の強い老翁は、自分で満足のいく紅茶が入れられればそれで良いらしく、
特に客から不満が出なければ概ねやりたいようにやらせてくれた。
「あ」
がたん
と、それまでの緩やかな空気が唐突に崩される。
高性能なセンサーでもある俺の耳は、木造のクソ重たい椅子が倒れる心地良い音を拾い上げたが、無視する。
ここの経営者である老翁はある意味では理想的な主と言えるが、、店の装飾や運営までアルバイトに任せるのはどうかと、少し心配になる。
確かに彼の仕事は接客ではなく、あくまで店を守り運営していく事だ。
「…あつ」
がしゃ
滑らかな陶器が互いに反発して擦れる音は、まるで天上の調べのようだ。
彼はこの城においての王であり、自分たちは彼らに使役される家来のような身である。
だがしかし、王といえど、わが身も同然の城の中を徘徊する人間の性格くらいは把握すべきではないだろうか。
いや、アルバイトの自主性を重んじる彼の経営方針には感服する。
昨今ここまで投げ遣りに、かつ自分の好きなことしかしない経営者も珍しいだろう。
てゆーかそんなんでよくこの店成り立つなと感心したほどだ。
だがしかし、
現在の状況においての仮初の主人である老翁の考えに意見するわけではないが、彼はもう少し店の状況を知るべきだ。
「あっ」
がっしゃん
特にアルバイトの質とかアルバイトの質とかアルバイトの質とかに。
何かが儚く壊れる音が盛大に背後から聞こえてくる。
…もう無視は出来まい。
そう思い、その日何度目かも忘れてしまった重たい溜息を零すと、先程の遣り取りを思い出し少し陰鬱な気分になる。
振り返り、どこかぼんやりと割れてしまった青いティーカップを見つめる少女を見つけた。
「あのな嬢ちゃん。何度も言うようで嫌だけどな、食器を運ぶときはしっかり力を込めろ。重くて無理なら誰かと代われ。
熱くて持てないというなら紅茶以外のものを運べ。 …………そろそろ聞き飽きないか俺の言うこと?」
女性全般、特にイイ女には殊更甘くなる性質の自分が、ここまで投げ遣りに、かつ呆れるのは初めてのことかもしれない。
先程から何遍も繰り返してきた遣り取りに、それでも懲りたのか反省したのかよく分からない表情を浮かべ、
自分と同じアルバイトである小さな少女を見遣る。
「ランサーさんの声は、深くて良く響いて、飽きることはないと思いますよぅ?」
そうじゃねぇ…。
ぽやっとした、天然系というかアレだ、なんつったか、電波系?
どうも同じ周波数の世界には生きていなさそうな感じの、掴めない少女。
打てば響くような反応を返すあの赤い少女や、素直な感情を正直に伝えてくるあの蒼い騎士王とは全く違うタイプの少女。
今までの人生の中で恐らくきっと初めて出会う種類の女。
動乱を生き抜いた英雄である自分の周りには、同じく戦いに生きる戦女神や小賢しい魔女達が数多く存在した。
女神にしろ魔女にしろ性質が悪いのは同じだが、それでも思ったことも感情も素直に示した。
だがこんな風に、自分の感情すら曖昧で、境界のはっきりしない少女は、はっきり言って扱いに困る。
あんまり感情を強くぶつけると、このふわふわした少女を壊してしまいそうで。
はぁ。
我知らず重くて深い溜息が漏れる。 割ってしまったティーカップをどうしようかと思案しているらしい少女に、素手で触ると危ないからと、身を遠ざける。
「いいから、注文とってきな」
指でフロアを指し示すと、くるんと柔らかそうな亜麻色の髪の毛が、少女の肩口で揺れる。
はぁいと甘い砂糖菓子のような声で答えると、ふんわりと店内へ戻っていくその後姿。
容姿だけで見るなら、全くの射程範囲内なんだがなぁ。
思わずぼやく。
かちゃりと無残にも割れてしまったウェジウッドのティーカップを拾い集めると、すばやくルーンを刻む。
ぽうと、淡く浮かび上がる光を手で覆って隠すと、一瞬後には元の滑らかな形に戻っていた。
「俺のルーンだってなぁ、無限じゃねぇんだぞ?」
誰ともなく呟くと、立ち上がり洗い場へとカップを戻す。
これが本日の、数分前の俺の日常。
その日もただあるがままの非日常を繰り返し、緩やかに緩慢に死の眠りにつくような、そんな終わり方をするのだと思っていた。
それが訪れるまで。
そして繰り返された記録にほんの僅かに綻びを齎した彼の来訪を知らず、そこで俺はひっそりと洗い物に取り掛かった。
|